美保海岸と大浜(湊)漁港の人造石遺産

投稿日:2022年4月9日 更新日:

天野武弘(愛知大学中部地方産業研究所)
天野人造石
天野人造石
天野人造石
天野人造石
天野人造石

■美保海岸には全国的に誇れる人造石遺産が存在する

○感動を覚えた美保海岸

 今治には以前から訪れたいと思っていたところがある。そこは美保海岸である。現在は今治港の漁業基地ともなっている。20年来の念願叶って2020年11月に初めて訪れたが、その姿を見たときの感動は今も忘れない。

 それは、長さ620mに及ぶ長大なしかも頑丈な石造りの防潮堤(当時は波除石垣)である。とくにこの防潮堤の上に立ったとき、滅多に見られない不思議な眺めに驚かされた。漁船がひしめくように停泊する港と、港に接する住宅街とを完全に分ける形に、ほぼ一直線に延々と延びている防潮堤の姿であった。初めてこの地に立った筆者には、思ってもみなかった光景に、思わず声を出すほどの感動を覚えたのであった。

 しかし筆者のこの感動とは別に、地元では当たり前の風景として生活に溶け込んでいるようであった。長い防潮堤には途中一ヵ所の切れ目もなく住宅街と海側とを完全に分断している。今でこそ高さは人の背丈を超える1.8mほどであるが、当時は浜辺から見ると3mを超す、見上げる高さだったという。

 近年になって堤防の随所に階段が取り付けられ、ここを自由に行き交うことができるようになっている。その防潮堤の上部を洗濯物の干し場としているところが沢山あり、その脇には漁具収納庫と思われるコンテナなどを利用した簡易倉庫がいくつも並んでいる。まさに長大な防潮堤あっての漁師町、そんな雰囲気を感じる美保海岸であった。

 ところで、この防潮堤、いつ造られ、どんな造りであろうか、その大きさや特徴はどうなのであろうか。なぜ筆者が愛知県からこの防潮堤見たさに訪れたのであろうか。先ずはこの点から解き明かしていきたいと思う。

○いつ造られたのであろうか

 防潮堤の建設年は明治18年(1885)頃から20年にかけてである。かなり古い歴史を持っている。それは災害復旧工事によるものであった。『今治市誌』によれば、現在の美保町や片原町を含むこの海岸線一帯は、明治17年8月及び、明治19年8月と9月の大暴風雨によって壊滅的被害に見舞われた。その復旧の際に地域を守る「波除石垣」を建設したとある。おかげでその後大きな災害は被っていないと市誌に書かれている。

 この海岸工事をしたのが、愛知県出身の服部長七率いる服部組であった。服部長七は当時新たな土木工法として脚光を浴び始めていた人造石工法の開発者であり施工者であった。

 この復旧工事に取りかかるとき、広島県の宇品の港(現・広島港)と干拓堤防を人造石工法で工事していることを知った当時の愛媛県知事関新平が、服部長七を招聘して工事を行わせたのである。まだ工事費が高かったコンクリート工法に比べて人造石工法は安価にでき、また強度も遜色がないことを聞きつけたことからであった。

 当時のお金で4万7,721円20銭6厘であった。これは明治19年の再度の災害を受けて追加工事したときのものと思われるが、服部長七が晩年に過ごした愛知県岡崎市の岩津天満宮蔵の古文書(明治20年12月10日付の関新平の工事命令書)に記録されている。

 なおこの海岸工事に関する別の古文書(「人造石発明及人造石事業 略履歴 服部長七」1894年、明治用水土地改良区蔵)には、明治19年に海岸延長3,000間(約5,450m)を工費7万円で請け負い、同年竣工、とある。

 古文書が断片的にしか残ってないため、また3,000間の正確な区域が記されてないこともあって、どこからどこまでを工事したかがはっきりしないが、現存する防潮堤はその一部分と思われる。

○どんな造りなのだろうか

 人造石工法とはどんなものなのだろうか。一度現地に行って是非見て欲しいのだが、一見普通の石垣造りのように見える。しかしよく見ると、使われる石と石が接触していない。その隙間(目地と呼ばれる)に、じつは「たたき(三和土)」が使われているのである。「たたき」とは、土(多くは花崗岩が風化した土壌である真砂土が使われる)と消石灰を混ぜて水を加えて練ったもので、江戸時代から固さが要求される土間などに使われてきた、いわば伝統的な左官技術である。これを利用して割石と組み合わせて、海岸堤防などの大規模土木工事にも使える工法として編み出したのであった。

 なお、この石垣の目地には「たたき」の風化を抑えるため、目地表面にのみセメントモルタルが施してある。そのため、セメント工法と勘違いすることもあるので注意を要する。その見方は、通常の石垣は石同士が接触していることが多いのに比べ、人造石工法では目地間隔が広いこと、目地に「たたき」が使われていること、これを確認することである。

○人造石工法はいつまで行われたか

 こうした人造石工事は、当初は広島県や愛媛県など西日本に比較的多く行われてきたが、明治20年代後半からは愛知県を中心に施工されてきた歴史がある。しかし大正時代にセメント工法が普及しはじめると、人力で叩き締めるのを前提とした手間のかかる工事では太刀打ちできず、次第に廃れていく。最も遅くまで施工していた愛知県でも昭和20年代を最後に、人造石工事は姿を消してしまう。

○美保海岸の人造石防潮堤の価値、先人の知恵と努力があってこその意味も大切に

 ところが、施工された土木構造物が、100年を経つ今もじつは全国にかなりの数で残っているのである。愛知県での施工が多かったため現存する人造石遺産も多いが、愛媛県でも今治のほかに、人造石で施工された松山港や旧大可賀新田などでも人造石遺産が散見される。

 こうした中、なぜ、筆者が愛知から美保海岸にまで足を伸ばしたかというと、この人造石の防潮堤が、全国的に見ても長大であるということ、明治20年頃に施工という全国的にも現存する初期の人造石遺産に該当するという希少性からであった。

 そして、現地調査によって、伊予大島石あるいは青御影石と呼ばれる地元産の花崗岩が使われていたこと、しかも防潮堤頂上の天端石の大きさが縦横1m前後、厚さ0.35mほどとほかでは見られない巨大な割石が、延々と敷き詰められていることも分かってきた。こうした頑丈な造りであったこと、これが建設後135年経った今も、幾多の災害にも耐え、その役割を果たしてきたことに繋がったのであろう。まさに防潮堤は、先人の知恵と努力のたまものであり、地域の守り神的存在であったともいえよう。

 是非このことを知って欲しい、地域に伝え続けて欲しい、文化財的価値も十分に備えているこの防潮堤を、長く大事にして欲しい、そんな思いをあらためて思った次第である。

■今ひとつ、大浜(湊)漁港の突堤にも注目を

 美保海岸から北に1.5kmほどのところに大浜(港)漁港がある。じつはここの突堤も、人造石工法で工事されている。愛媛県の行政資料「明治20年」によれば、「大濱村海岸部より沖「黒磯」に突堤築造の請願」が地元より出されている。ここも美保海岸と同じく明治20年の被災を受けた地域である。

 突堤工事もやはり服部長七の仕事であった。『今治市誌』には「東京の土工家服部長七の築造する所である」と記されている。当時服部長七は東京に本店事務所を構えていたことによる。

 ここは図に示すように、くの字形に折れ曲がった2本の突堤によって船溜まりが造られた漁港であるが、当初工事は向かって右側の真っ直ぐに伸びた長さ100m余りの1本だけで、漂砂防止を目的とした突堤工事といわれている。その後ほかの突堤が造られ、漁港としての現在の姿となったのは1945年以降である。

 この最初の突堤1本が人造石工法で造られていたのである。筆者が最初にここに訪れた2001年のときは、一部コンクリートでの補修はされていたものの、堤体自体は人造石工法特有の造りがされていて、その見事な姿に感動したことを覚えている。

 しかしその後、漁港の静穏と呼ばれる観点から全面補強が必要になり、人造石部分のほとんどがコンクリートで覆われてしまった、と聞いていた。ところが、2020年11月に再び訪れたとき、当初の突堤先端部分で人造石工法特有の姿を確認することとなった。工事を行った担当部署には「残してくれて有り難う」と感謝をしたい気持であった。 ここも是非訪れて欲しいところである。